「自分が『知る』ということの『何か』とは」/この頃私が思うこと 


                      

 8月29日土曜日。居酒屋で翌日の選挙の話をしていたら、飲んでいるなかの1人に「私、選挙権ないんだよね」と言われた。飲んでいたほかの4人の視線が、一気に彼女に集まった。彼女は在日韓国人の2世だという。


 別の1人が、「でも、選挙権って帰化すればもらえるでしょ?」と普通に言うので、彼女が何か言葉を発しようとしていたにもかかわらず、私が熱くなってしまった。「彼女には彼女のコミュニティがあって、文化があって、国があって、そういうものがあって、彼女がいるわけでしょ。簡単に日本に帰化するなんてできないでしょ」。


 「帰化」という言葉を発したのは、人を傷つけることのない、とても優しい男友達だ。彼女が静かに言った。「例えば、お盆でも、うちでは韓国の風習をするんだよね。日本に生まれて日本に育っているけど、完璧に日本人ではないし、日本人にはなれないと思うよね」。


 「知る」ということが大切だとリアルに感じたことは、正直、今までなかった。「知る」ことが大切なのは分かっていても、「知る」だけでなにかが変わるとは思っていなかった。けれど、簡単に「帰化」という言葉を発せずに済んだのは、ささやかだけれど、自分が「知る」ことで得た「何か」のおかげだった。「わんりぃ」の書評がなければ、読むことのなかった本が教えてくれたことだ。


 私自身も、学生時代に台湾人の友人に中国についていろいろと聞いて、その場にいた別の友人に後で「はらはらした」と言われたことがあった。自覚はなかったが、台湾≒中国というような聞き方をしていたらしい。「知らない」とは、そういうことだ。


 彼女とは、選挙前日のその日が初対面だった。彼女を紹介してくれた友人の話によると、大学入学時にも、自分が在日韓国人だと自己紹介したそうだ。きっと、それが彼女の姿勢なのだと思う。日本にいるからこそ、自分が韓国人だと意識せざるを得ない。日本にいる日本人の私には知りえない、リアルにここは窮屈な国なのかもしれない。



中国を読む・目次へ戻る      TOPへ戻る